「学び」の深層⑩ー【おまけ】なぜ「じゅぎょう」は「授業」と書くのか?ー
辞書を引いてみると「受業」という言葉があることがわかります。師匠は「授業」、弟子は「受業」するのです。それなのに、多くの人は、英語で言う”class”の訳語として「授業」を当てることに疑問を持ったことはないでしょう。しかし、この”class”を直訳すれば、子どもの学力水準(もしくは年齢)を基に「振り分けたグループ」であり、さらに派生して「そのグループに対して行われる活動」となります。ちなみに、そのグループの日常的な居場所が”classroom”(教室)になる訳です。
この際、”class”には、誰が行う活動であるのかについての想定が希薄です。つまり、”class”の主体は、教師でも良いし、児童・生徒でも良いのです。
しかし、その”class”が明治期日本で「授業」と訳されました。当時”class”は紛れもなく教師のみが行う活動だったからです。1世紀半を経た今日、「じゅぎょう」を「授業」と書き続ける限り、児童・生徒は「じゅぎょう」の客体のままに据え置かれてしまうかもしれません。