しかられる手がかり
子どもの行動を抑制する必要がある場合「しかる」ことは有効です。しかし、罰によって子どもの行動を変えようとするとき、しばしば困った事態が生じます。見かけ上は行動が変わって見えても、その実、変わっていない。つまり、先生の見ているところではやらないが、見ていないところでやる、という例のアレです。
同様のことは「ほめる」場合も生じます。道徳の時間、先生の発問に「困っている人を助けます!」と胸を張って答えた子どもが、難儀していそうなお年寄りのそばを素通りする。例の、道徳的行動に結びつかない問題です。
これらはすべて、子どもが「場面の手がかり」を使った結果です。先生からしかられた子どもは、特定の行動と罰との結びつきを学習しますが、同時に、罰が来るのは「先生が居る場面」だと学びます。先生の存在・不在が、罰の有り無しの手がかりとなっているのです。道徳の時間のよい子ちゃんの場合は、先生の期待が手がかりになっています。先生の期待を感じ取って、それに沿った「よい答」を言うことで報酬が得られます。先生の期待が直接感じられない場面では「よい答」は必要がありません。
自発行動の結果、報酬が得られる・罰をくらう、が行動を適応的に調整するメカニズムです。このメカニズムを用いて、生き物は、自分の置かれた環境で「生きていくすべ」を学びます。これを心理学では「学習」と呼びます。そして学習は、おかれた環境内の手がかりにも及びます。「ある行動をいつ・どのような場面で取る」とより適応的なのか、つまり場面と行動の組み合わせをおぼえるのが「弁別学習」です。
さまざまな環境・変化する状況の中で、その都度どのような行動を取ればいいか。弁別学習は生き物にとって不可欠な学習です。しかし人の場合、行動の使い分けができることは、よくも悪くも作用します。先生にかくれて悪さをする、先生の前ではいい子に振る舞う、これらの使い分けを減らすには、行動そのものの社会的意味を理解させることが必要です。その第一歩は、しかった時にも・ほめた時にも、その行動がなぜ罰の対象であるのか・なぜ報酬に値するのか、その「理由」をきちんと伝えることから始まります。