覆面をつけた攻撃者たち

 古い映画ですが、A.パーカー監督の「ミシシッピー・バーニング」(1988)を観て、「ほぇー。実験とそっくり同じだ」と思いました。実験というのは、社会心理学者P.ジンバルドーさんが行った「匿名性と攻撃」の実験です。

 映画の方は、公民権運動当時の南部で起きた殺人事件をタイプの異なる2人の捜査官が解決していくというストーリーですが、社会派監督らしく、黒人さんたちの置かれている状況(差別・暴力・私刑など)がリアルに描かれていて心に迫ります。そこに当然、K.K.K.が絡んでいます。わたしは、へー実際にあんなシーツみたいなのを被ってたんだー。とか、暴力沙汰する時かえって動きにくかろうに。とか、隠さなくても白人至上主義の連中って面われてんじゃない。とかブツクサ思いました。

 実験の方は、こうです。参加者の女子大学生たちは、電気ショック実験の手伝いをすることになり、隣室の女性にショックを与えるボタンを、数名のグループで押す役目をします。匿名条件では、グループの全員が、映画とそっくりな衣装“目と口のごく一部が開いただけで全身が隠れるシーツみたいな被り物”を着用します。非匿名条件では“衣装は同じだが、小さな名札を付ける”のです。その結果、匿名条件のクループは、非匿名条件のグループより、長い時間ショックボタンを押したのです。(註)

 ジンバルドーさんは、匿名条件の人々がより攻撃的になったのは「没個性化」のためだと説明しています。シーツを被ってお互い誰だか分からない状態では、個人が特定されない。個人が特定されないことは「その行動の責任が自分に還元されない」そのような没個性化状態では、人は、何をやってもかまわない。という心理状態になりがちだと言うのです。

 思えば、K.K.K.は黒人さんに対して顔を隠していたというより、「日常の自分(父親とか職業人とか)」から離脱する手段として被り物をしていたのかもしれません。被り物をすることで、没個性化が促進され、やりたい放題の気分になれたのです。

 学校内の子どもたちは、個人が特定されています。名札だってつけています。しかし学校外、特に繁華街だとか、お祭りだとか、気分が高揚する場での没個性化は、学校で「やりたくてもやれなかったこと」が解放されかねません。学校内でも、大勢でひとりをいじる(いじめる)時など、ひとりひとりが何を言ったか・やったかを特定することが難しい場面もあります。「なぜ、あの子がこんなことを?」と悩む時、没個性化の影響を思い出してみてください。

(註)

この実験はディセプション(deception)を用いています。ディセプションとは、ある状況を実験室内に再現するため、嘘の教示を用いることです。この実験では、隣室の女性は電気ショックを受けてはいません。ディセプションを用いた場合は、実験終了後に本当のことを説明して、実験参加者に謝罪し理解を求めます。

文献

Zimbardo, Phillip. G. (1969) “The human choice: Individuation, reason, and order versus deindividuation, impulse, and chaos”. In W. J. Arnold & D. Levine(Eds.), 1969 Nebraska Symposium on Motivation(pp. 237-307). Lincoln, NE: University of Nebraska Press.